「飯田口説」。「はんだくどき」と読むそうですが、そもそも「口説(くどき)」って?
ある作家いわく、「説明調のひとり語り。津軽の恐山のいたこがしゃべる身の上ばなしの調子である。こういう話し方は江戸期、口説とよばれた。浄瑠璃や歌舞伎音楽などで、想う相手に恋のもだえを訴えるくだりは、口説である」と。
石巻市北上女川地区で語り継がれる261年前(宝暦2年)実際に起きた事件の悲話です。それも今で言う‶不倫″がらみ…。この「口説」を聴いたことはありません。ただ先の解説を頼りに想像するのみです。
登場人物は、この地の領主飯田能登道親、その妻お節、その境遇に同情した同家側用人・日塔喜右衛門の3人。お節、喜右衛門による不義密通、主人殺し、その後の1カ月余の逃避行、捕縛、入牢5か月、そして処刑に至るまで。酒と色に溺れる殿様、お節の出自の話、南部領釜石まで逃げ捕縛されるまでの苦難、心静かに処刑を待つ牢生活などが織り込まれ、聴けばきっと涙、涙の話なのでしょう。
主人殺しは当時も今も大罪で事件を調べた役人の文書は大量にあって、史実とのかい離は免れません。でも、昔の人の思いが言葉になり今に伝わることこそ郷土史と思いたい。
それにしても、お節さんが5代藩主・吉村のご落胤で、事件当時は22歳、薙刀の心得があり、逃避行の路銀は櫛、笄を売ってあてたなど興味が尽きません。ちなみに喜右衛門には妻子があり事件後、父は田代島に流罪、母は下女に、妻は自害、子は死亡でお咎めなしという処分でした。
なお、2人とも七北田の刑場で磔(はりつけ)にされました。お節さんは仙台新寺小路の善導寺で今も供養されていますが、喜右衛門は分かりません。「口説」は1時間半に及ぶといい現在は語る人はいないということです。