カテゴリー:私たちのこと
2013.07.01
芭蕉の「奥の細道」石巻の項に「袖のわたり、尾ぶちの牧 真野の萱原などよそ目に見て 遥かなる堤を行く」と記された一行が出てきます。松尾芭蕉は元禄2年(1689)5月、石巻に来て一泊、平泉に向かいました。
この中の「尾ぶちの牧」ってどのあたりだったと思います? 芭蕉に同行した曽良は「尾駮御牧 石巻の向 牧山と云有 その下也」(名勝備忘録)と補足しています。
「牧山の下」といっても東西南北がありますが、彼らは北上川を渡ることなく平泉への道を北行したこと、「真野の萱原をよそ目に」見たことなどをあわせ考えれば、そこは牧山の北の稲井地区にあたります。ある史家によると「尾ぶちの牧」の「尾ぶち」とは「お(あ)うち」から「おふち」「おぶち」への転化で、王地、凹地、奥地の字をあてるのだそうです。都人が原野と荒馬をイメージして歌に使った言葉だとのことです。
という歌もあります。
ここに「駒(馬)」が出てきました。馬はどこにいますか。「牧」にですね。牧とは「牛馬などを放牧できるように設備した土地」のことです。「牧山の下」は牧場だったということでしょうか。
稲井地区と言っても少々広く、「牧山の下」の場所を絞り込むとそこは平形、台、沼津、越田の地区とのこと。その根拠は平安期から鎌倉期まで「馬」のことを「むま」と発音したということです。つまり沼津は「むまつ」からの転化であり馬の積み出し地だったという説です。ここに海が入り込んでいた古代、船で都へ積みだされたというのです。当時、馬は強力な戦力以外のなにものでもなく、権力の象徴でしたからそう言われれば納得できないではありません。
芭蕉が来たころはその歴史は終わって歌の世界だけの話になっていたのですが…。ちなみに、東京の目黒の語源は「馬畔」(めぐろ、牧場のあぜ道)で鎌倉期は馬の供給地だったことを示しているそうです。