文字通り田んぼをつぶしてできた町だから田町。北目町のさらに南に位置する。水沼の内海五郎兵衛が架橋した内海橋(明治15年)によって湊側の出入り口になった。「田町角(かど)」の地名が懐かしいが、そういえば橋の際には大華楼という中華そば屋さん、道を挟んで外科と内科の医院があったことが思いで深い。
現在も館山庭に「旧名・田町」を残す所と八幡町1丁目一帯を合わせた地区が旧田町にあたるだろう。鎮守様の箱崎八幡がある。10世紀から鎮座しているという。また明治29年には宮城水産高の前身・牡鹿郡簡易水産学校がこの地に誕生している。
戦後しばらく、砕石場を背に鋳物工場があった。造船所があった。その跡地が震災前、住宅分譲地になって家が建ち始めたところで、津波に襲われた。‶一泊3千万円″という笑えぬ話も聞こえてきた。旧湊タクシー車庫あたりに鉄道馬車(大正、昭和初期に運行.別項で紹介)の発着所もあった。